いわゆる転勤族の典型。
最短は一年で引っ越し。
飛んだ先は九州から青森まで。
その度ごとに地元の有力なピアノの先生探しをしていた母は 私を含めた兄弟の進学を考え大きな決断をする。
私は母の姉夫婦の元へ音楽修行、母はその土地に残り 大きくなってきた主宰ピアノ教室を継続、父は単身赴任。
つまり家族が三つに分割。
「要するに頑張ればいいんでしょ!」と簡単に考えていた私は14歳、まだまだ子供だった。
新しい先生は井口愛子先生。
当時クラシックピアノの世界では大御所と言われた先生。
成城学園の塀の高い洋館の玄関を入ってすぐ左のレッスン室にはセピア色の発表会の写真が・・・あ、小学生位の中村紘子先生だ、宮沢明子先生、野島稔先生・・。
他にも掲載の順番を間違えたら怒られそうな錚々たる先生方。
とびっきり利発なお顔の小学生低学年の渡邊一正君がコンチェルトのレッスンを受けているのを拝見した時はとてつもなく自分が「ダメ」な人間だと思った。
崩された積み木はまた積み上げればいい、という事に気付くまでに何年もかかかった。
愛子先生のレッスンは徹底していた。
一つの音にこだわり深く音楽を追及する姿勢を厳しく教えて下さった。
山口先生も様々なテクニックを親切丁寧に時間を度外視して教えて下さった。
しかし、東京でのカルチャーショック、住まいの変化、相談したくても親がいない強烈なホームシックの三重苦に苦しんだ。
練習を重ねる事だけがこの状況を“後で笑って語れる”突破口にできると以前の何倍も弾き続けた。
多くの友人も応援してくれた。
“環境的には恵まれているはずだ”と自覚していた当時思春期の私が、当然「反抗期」を封印せざるを得なくて「孤独」と「何のためのピアノか」を深く考える様になったのはこんな経緯があったためだ。
やっと家族で暮らせる日が来たとき、私は「留学」の話しを断った。勉強したい気持ちはあった。
しかし卒業した今、人と音楽を通して触れ合いたい気持ちの方が強かった。
それに当時日本はバブルの頃で「とりあえず海外へ」の留学組が多く、一緒に旅立つよりは一年でも早く豊かな心を持った子供達と共に音楽の素晴らしさを共有出来る方が魅力的に思えた。
私は子供達や父兄の話しを聞く時、全身で聞く。
音楽を聴く時と同じ。
しかし聞くからと言って人生訓を述べるつもりもない。
“聞く”という処方箋と同時に生徒さんの鼻をかんであげる、靴下をはかせてあげる、そんな営みも大切だと思っている。
なぜならそんな営みがお互いの理解を深めるだけでなく、子供の心に「自己肯定感」を生む源流となるから。
彼等がピアノを学ぶ事で自分の変化を感じ取り、周りにどんな影響を与えているか、そして自分は時代のどの位置にいるのか、この社会情勢、世界情勢の中どのように発信していける大人になるかを考え行動していく事が「生きる力」につながっていけばと思う。
私はれっきとした街のピアノのセンセである。
ピアノ教室を主宰するという事はもはや自分のためだけの音楽ではなくなった、という事。
最近の「損」「得」の物差し勘定で物事を判断する風潮からいうと、音楽は窮屈な居場所に追いやられるやも知れない。
しかし、音楽が社会で果たす役割は大きく、それに携わり、活躍できる若い人を一人でも増やしていきたい。
これからの日本をしょって立つ若い方々へ、祈りをこめて・・・。